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(うむむむ……)

 それから俺は“あくむ”を見るようになった。

 ふわふわフニフニした物体――形はお椀をひっくりかしたようななだらかな丸みを帯びていて、
先っぽにピンク色のポッチがついていて、美味しそうなイチゴ大福みたいにも見える――
が、たくさん俺の手や体にくっついてくる。

 気持ち悪いとかは全然なくて、むしろ気持ちいい。
しかし、その気持ち良さは、野球でホームランを打ったときとか、お風呂に入ったときとか、
テストでいい点数取ったときとか、そんな気持ち良さじゃなくて……。
顔は熱くなるし、胸が経験したことのないくらいドキドキするし、オチ○チンはムズムズするし、
つまり、『もうやめてくれーーー』って感じだ。

 この時、俺は小さいながらに悟った。
 気持ち良さも度が過ぎると、拷問になりうることを。



(うむむむ……むむむ!)

 いつの間にか、たくさんのイチゴ大福フニフニが一つに集まって、アメーバのように“がったい”を始める。
それも俺にまとわりついたままだ。

 むにむにむに……。

 そうして、次第に人の形になっていく。

 もはやホラーだ。テラーだ。SFXだ。怪談だ。

……その人の形。
全部見届けなくても誰だか、すぐに分かった。

(の……のどか姉さん……)

それも裸。服を着ていない。
おっぱいが丸見えだ。
そんな格好で俺に抱きつきながら、こう言った。


『じゅ〜んちゃん? 学校いくべ』


(せめて服を着てくれーーーーー!)

 そう叫ぶ俺。

“こんぽんてき”な問題はそこじゃない気もするが、まあいい。
夢心理学の学者さんがどう分析するかも興味ない。

 とにかく。こんな“あくむ”を毎晩のように見た。
後の俺に、よくトラウマにならなかったもんだと感心する。
トラウマにならなかったのは、男の本能の原初的な部分に訴えかける幸せな感触ゆえではないかと、
現在の俺は分析するのだった。



                         §



「純、どうした? 大丈夫か?」

 お父さんの声で目が覚める。

「最近、よくうなされてるみたいだけど……何か学校であったの?」

 これはお母さん。

「ううん……なんでもない」

 あんな夢を見てたなんて言えるわけがない。
これ以上、お父さんとお母さんに問いつめられるのがイヤで、布団からガバッと起きて、顔を洗った。

(……はぁ……)

 鏡に映った俺の顔は、小学生にふさわしくないほど疲れ果てた顔をしていた。

こんなに疲れるのは、全部、のどか姉さんのせいだ。
のどか姉さんのおっぱいを見てから、俺は変になってしまった。



 冷たい水で顔を洗うと、いくらか気分も良くなった。
朝ご飯を食べ終わり、学校に行こうと玄関に降りた瞬間……。

「じゅ〜んちゃん、学校いくべ」

 俺の体がピキッと固まった。
 あくむと同じ台詞だ。

「あらあら、のどかちゃん。いつもお迎え悪いね〜」

「いえいえ、おばさん。わたしは、純ちゃんのお姉さんですから!」

「うふふ。のどかちゃんが本当のお姉さんだったら良かったのにね、純?」


「…………」

「純?」
「純ちゃん? 固まってる?」


 石化してしまった俺を心配そうに見つめるのどか姉さん。
 じっと見られるのが恥ずかしくて、
 見られる距離が近すぎて、これも恥ずかしくて、
 ふたつの膨らみが、目に入って、これが一番恥ずかしくて、

「お、俺、一人で学校に行く!」

 通学路に駆け出す。

「ま、待ってよー純ちゃん〜〜〜」

 今にもこけてしまいそうな危なっかしい走り方でのどか姉さんが追いかけてくる。
 また怪我しちゃうと可哀相なので、俺は立ち止まり、のどか姉さんを待つ。

「えへー。ありがとう。待っててくれたんだねー」

「ふ、ふん」


 のどか姉さんの笑顔。
やっぱり俺は、顔をまともに見られなくて視線を道に落とす。
 のどか姉さんの足には、もう、あの凶悪なキャラの絆創膏は貼られていない。

「……最近、怪我してない……みたいだな」
「あ、うん。全然してないよ。おかげで、うっしっし君の救急箱も最近は用なしだよ」

 ちょっぴり安心した。
 って……安心っていっても、別にのどか姉さんが怪我してないことじゃないんだからね!
あの変なキャラの顔を見なくて済んだことだよ?

「ねえ、純ちゃん?」

「う、うん?」

「勉強、ちゃんとやってる?」


 また始まったのどか姉さんのお母さんみたいな台詞。
俺は答えるのが面倒で、首だけで頷く。

「ご飯もちゃんと食べてる?」

「食べてるよ」

「お魚も?」

「魚は嫌い……」

「ダメじゃない。お魚もちゃんと食べないと、頭も良くならないし、体も丈夫にならないんだよ?」

「別にならなくていいもん」


 ――この頃の俺は、とにかくのどか姉さんに拒絶オーラばりばりで……
のどか姉さんは、話す話題を見つけるため、どうしてもお節介&お説教モードになってしまったらしい。

 だが、そんな感情の機微など当時の俺に読めるわけもなく、出た結論は『お説教なんて、まっぴらごめんだ』

 俺は、歩くスピードを速め、のどか姉さんから距離を置く。

「ちょ……純ちゃん、待ってってば……」

 のどか姉さんは小走りになって、俺を追いかける。
ホント、どっちが年上か分からない。
俺は、また仕方なくスピードを緩め、のどか姉さんの遅い足に合わせて歩く。
 やっと追いついたのどか姉さんは、息を整えてから、なんとも困ったような顔で俺を見つめる。
 その、ちょっと悲しそうな顔……俺の胸の奥がチクリと痛んだ。

「ねえ……純ちゃん……」

「うん?」

「もし違ったらごめんね?」

「うん」

「最近、あんまりお話してくれなくなったから、変だなぁ……って」


 ……。

「わたし、純ちゃんを怒らせること、したかなぁ? もし、したんだったらごめんね?」

「べ、別にそんなんじゃないから……」

「そっかぁ……。えへへ、よかった。純ちゃんに嫌われたかな、って思ったよ〜」


 嫌われたかな……って思ったよ、か……。

 俺、何度も何度ものどか姉さんのことを大嫌いだって思ったけど――
口に出して『大嫌い』って言うと、また悲しい顔をされるだろうし……
俺は、のどか姉さんの、そんな顔は見たくないと思った。

……なんだ、全然大嫌いじゃないじゃないか。

「……学校で」

「うん……? 純ちゃん、学校でどうしたの? まさか、いじめられてる?」

「そんなんじゃないよ! 俺、ケンカ強いから」

「け、ケンカはダメだけど……。それで、学校でどうしたの?」

「女の子……のどか姉さんと一緒にいると、友達にからかわれる。それだけ」

「な、なーんだ……そうだったんね……」

「なんだってなんだよう」

「えへへ……ごめんごめん。そっか、嫌われたんじゃなかったんだ」


 のどか姉さんの顔がみるみる笑顔に変わっていく。
さっき感じた胸の痛みが、あっという間に吹き飛ぶような笑顔だった。

「そんなの気にすることないんさ。だって、のどか姉さんはお姉さんでしょや」

 俺の手が、柔らかい手の平に包まれる。
のどか姉さんの暖かい手に。

 だけど、やっぱり俺はのどか姉さんと手を繋ぐのが恥ずかしくて、反射的にその手を払いのけてしまった。

「…………」

 また、のどか姉さんの顔が悲しそうに変わった。

 俺の胸が、また痛む。

 もう、のどか姉さんは俺と手を繋ごうとしなかった。
 少し寒くなってきた、北海道の9月の終わり。
俺の手とのどか姉さんの手が、白樺並木に寂しく揺れていた。


続く